2001年 冬天

 

 

まだ先だと思っていた12月は、すぐにやって来た。

留学以来、二度目の上海。

上海大学でお世話になった江先生に頼んで、

大学の来賓楼に安い料金で宿泊させてもらった。

そして到着翌日、初めて“上海新天地”を訪れた。

ARK・・ARK・・ARK・・、あった。ここか!

入り口がイマイチわかりづらいけど、とにかく入ってみた。

わぁぁ・・、広い。おしゃれ!

それが第一印象。

かつてあった日清パワーステーショくらい・・いや

もっとゆったりしてるなぁ。

ステージを所狭しと動くバンドに、自分の影を重ねてみた。

無限の可能性・・そんな言葉が浮かぶ。

何も考えず、その日の出演バンドをたんまりと楽しんだ。

K氏に挨拶をした後,MARIさんという日本人の女性を紹介して頂いた。

本当に“可愛らしい”という言葉がピッタリなチャーミングな女性だが、

日頃、上海にいないK氏に代わって、ARKの全てを監督している才女である。

日本から来た、何モノか分からぬ坂上輩に、心から丁寧に接してくれた。

「今の上海を見に来た」という名目ではあるが、

私の心はとうに決まっていた。

空いた時間に、持ってきたノートPCで、住居探しを始めた。

「今、上海にいるので、物件すぐにでも見たいのですが・・。」と送信。

日本人だと分かると、とんでもない家賃をフッかけてくるところもある。

何件も何件も、アクセスし、電話してみた。

・・・・12月8日、レンタルの携帯電話がいきなり鳴った。

出てみると、大阪にいる母である。

上海の携帯にわざわざ電話してくるなんて・・・・

良くない話であろうことはすぐに察しがついた。

でも、そんなに思わぬ事とは・・・。

 

母の声は、震災の直後にかけてきた電話よりも震えていた。

「伊織・・びっくりしたらあかんで、びっくりせんと聞きや・・。」

涙もろくても、取り乱すことは少ない母である。

「なによ。どないしたん?」

「ユウコ叔母ちゃんが、・・ユウコ叔母ちゃんが・・」

母の言葉は、涙に埋もれてしまった。

 

私が上海入りした12月4日に、“簡単な手術”で入院したユウコ叔母。

大した病気では無かった・・。

ユウコ叔母ちゃんが、なんで・・・。

ちょうど私が帰国する10日がお通夜だという。

どこまでも面倒見がよかったユウコ叔母は、

こんな時にも、私が最後の挨拶に間に合うように計らってくれたのだろうか・・。

入院直前に初の内孫が生まれ、それを見届けて

「私も赤ちゃん産むねん!」と粋な冗談を言って、

病院に入っていった人だった・・。

そして、何よりも、私の両親が離婚した時に、

傷心の母と姉と私の面倒を、一切引き受けてくれた人だった。

小学生だった私、中学生だった姉にとって、

それは、どんなに試練を救ってくれる存在だったか。

 

毎年、親子で食事などする機会には、必ずその話題になり、

「ユウコ叔母ちゃんがおらんかったら、どないなってたやろなぁ。」

と、しみじみ回想する。

まさしく、“第二の母親”だった、ユウコ叔母・・。

しかし所は上海。私にはやるべきことがある。

初めは、「ほんまにやる気あるの?」という懸念も持たれていたかも知れないが、

こうしてARKに来た坂上に、

K氏もきちんと今後の展望を話し合う姿勢で接してくれた。

もう、上海で、定期的に活動をする現実的な準備をしなくてはいけない。

 

この数日で、何軒かの家主さんと、物件を見させて頂く約束を取り付けていた。

その中で、中国人の男性と、日本人女性のご夫婦がお持ちの物件があった。

郊外ではあるが、日本人が暮らし易いように、いろいろな工夫が施されている。

バスルームには深い湯船が設置され、日本人の生活では分からない特殊な設備には、

きちんと日本語で説明が書かれている。

バス停からは徒歩1分。・・

でも大家さんは、親切にも私の家と職場との通勤疲労を考えて下さった。

バス通勤で、ここからARKまでは調子のいい時で50分。

渋滞していると1時間半以上はかかる。

試しに、その場所からARKまでバスに乗ってみた。

ラッシュを少しはずした時間のせいか、さほど苦では無かった。

“ここだな・・・!”

もう直感に頼るしか無い。決めた。

上海大学の江先生にも

バスや地下鉄周りのことを事細かに聞いた。

地図を描きながら、丁寧に説明して下さる。

「ここに行くにはこの番号のバス。ここで乗り換え。」

たくさんの“貴重書類”が、どんどん増えていった。

ARKの一室で、K氏が、ゆっくり話す機会を設けて下さった。

“職はどう・・?”  

“いえ、まだいろいろ交渉中で・・。”

 

実は、まだここだけの話だが

MARIさんには他にやりたい事があって

ARKでは、彼女の代わり・・というかアシスタントを

やってくれる人を探している。

生活出来るくらいの給料は出すし、

ARKで働きながら、ライブ活動をやっていく、という方法もあるよ。

 

職には困っていた。

とても、有難い話だ。・・

でも、ステージに出る側と現場スタッフ。

これを両立させるのはどんなに難しいか。

ましてや中国で初めて出来た、“初めて”だらけのライブハウスだ。

ジァン・ジァンの経験で、舞台と舞台裏、この両立がどんなに大変か、

少しは分かっているつもりだった。

さらにK氏は言った。

1月25日、この日は上海のライブシーンの歴史が変わる日だから

この日までに出て来て、その瞬間を自分の目で見ておいたほうがいい・・。

1月・・。

日本から大御所のミュージシャンがARKに来て、

上海の若いバンドとセッションをし、

それが、NHK-BSでドキュメントとして放送される、との事。

それは、本当に観たい。

しかし、あと1ヶ月・・。

単純に、「住むとしたら、春あたりから・・。」と考えていた。

 

でも、今の私に“躊躇”の時間は無い。

最初から、前進する為にここに来たのである。

 

「・・・分かりました。来月、上海に出て来ます。」

この返事で『契約成立』となった。

10日、帰国。いろんな思いが頭を巡る・・・。

 

成田から自宅へ戻り、黒い服を揃えて新大阪行きの新幹線に乗った。

とにかく急いで到着したかった。

兄弟のようにいつも一緒だった、従兄弟の“かっくん”が喪主である。

・・・やはり信じられない。私は何をしに故郷へ向かっているのだろう・・。

深夜、地図をたどって着いた西宮のお寺では

かっくんも母も姉も、棺の近くでお酒を酌み交わしていた。

九州から、親族が全員駆けつけていた。

坂上家の長男である三郎叔父は、

「伊織!まぁぁ・・遠くからユウコの結婚式にようこそ!

・・じゃったらよかったんじゃがねぇ・・。」ひょうきんな叔父流の出迎えである。

遠くから、という意味が日頃は「東京からわざわざ・・」なのが

今回は上海である。

みんな、とても気を遣ってくれた。

けれど、そこにいるみんなの方が疲れているのは

一目瞭然だった。

2ヶ月ちょっと前に、祖母が他界したばかりである。

四十九日を終えてややほっとしたのもつかの間、

今度はその祖母の面倒を一番見ていたユウコ叔母の急死。

考えたくなくても「ばあちゃん、なんでユウコおばちゃん、連れていったん・・?」

という気持ちになる・・。

 

お通夜、お葬式・・ひたすら姉と従兄弟とでお酒を酌み交わした。

東京に戻る頃、最悪な事態になっていた。

全くと言っていいほど声が出ない。

上海での事と、ユウコ叔母の突然の訃報での疲れが、

こんな形で出てしまったのだろうか。

東京に着いて、ある程度の荷物を解いてからすぐ、

カメラマンのELEN宅に飛び込んだ。

筆談で、ELENに必要事項を告げ

かかりつけのF先生の所に電話してもらった。

「本人、今全く声が出ないんで、代わりに電話してます!」

ELENが、診察の予約を取ってくれた。

 

胃カメラ、ならぬ声帯カメラで検査してもらう。

急性のものだ、大丈夫!ということで薬をもらって帰宅した。

現に、数日でなんとなく話が出来る状態になった。

しかし、留学代行の仕事をしていた私は

まだまだ電話に出て顧客と話せる状態ではない。

早めに社長に「上海に行く事に決めたので退社させて頂きたい。」と

言わなければならないのに、・・・

失礼ながら、ほとんど筆談で“退社願”・・という羽目になった。

声の症状は、良くなっては、ぶり返し、良くなっては、ぶり返しで、

1ヶ月先の『ぼちぼちライブ』にまで影響することとなる・・。

時間が無い。

上海へ行く準備。何から手をつければいいのか・・。

国際引越の見積もり。

家のもの、特に家電用品は電圧が違うということと、

税金がかかるという理由でほとんど持っていけない。

友人に連絡して引き取り手を捜す。通関税の見積もり。

なんと私の手持ちCDを全部持っていくと、40万円近く通関税を取られるという。

調査。調査。東京から上海へ、オフィスミョンスーが移転する事の知らせ。

留学の仕事の引継ぎ書作成。上海のMARIさんとの密な連絡。

そして、いつもは年末年始、あまりライブを入れないようにしているのに、

今回に限って1月13日の“ぼちぼちライブ”までに本番が4本控えている。

リハーサル、本番、リハーサル、本番。

渡中資金も少ない。年末も正月も無く、仕事をみっちりと入れた。

出発は1月18日に決定。

この事を親に連絡するのも、すっかり忘れていた。

明日はこれをやって、これをやって・・。

ベッドに入っても、考える事がありすぎて眠れない夜が続く・・。

 

 

この辺に住むことになるのか・・・。探索、探索。

黄浦江は、大好きな河。この河の水は揚子江へと繋がっている。